もともとTrustが生まれた背景には、十字軍でキリスト教徒が回教徒と戦争をしにいく時に、自分の命の保障はなく、明日にも自分の命を落とすかもしれないことがあった。命を落とすことにより、跡継ぎがいなければ君主から与えられた土地を取り上げられてしまうこともあった。守らなければいけない家族がいるわけで、愛するものを路頭に迷わせるわけにはいかない。そこで、自分の財産をトラストに移し、被信託人に管理を任せて、受益人のために財産や利益を供与してもらう。
この本質は何も今日においても変わるものではない。信託をする人は、仮に亡くなってしまえばいかに心残りであろうと、自らが動くことはできない。それゆえに被信託人がその人の意思をどれだけ親身に理解し、故人が望むような形で受益人に恩恵を供与しなければならない。この被信託人(個人または法人)がいかに残された家族のために財産を管理していくのかがものすごく重要であることは言うまでもない。財産の管理や処分を行なう権限も付与されるので、被信託人の役割は極めて重い。
さて、被信託人は自分の行なう行動に対して対価をもらう。法人であれば、それなりの年間費用がかかり、決して安いものではない。財産を維持管理することが必要であり、被信託人はその目的のために一生懸命働かなければいけない。財産を維持管理する場合に、銀行に預金をすることもあれば、株式を購入すること、不動産を購入することなど等いろいろなことができる。
ちょうど今の時期のことである。あるトラストの中を見てみると、被信託人としての法人(金融機関の信託会社)の購入した株式が、軒並み価格が下落して大きな損失を招いてしまっている。これは一体どういうことなのかと思わずにはいられなかった。自分が会社員の時代だった時に、為替のポジションを持った。言葉が悪いが所詮は会社のお金で自分のお金ではない。一生懸命やりました。結果は損失が出ました。給料は保証されています。というのと同じではないかと思ってしまう。
自分の財産で自分がリスクをとっていれば、運用の失敗の結果は直接、自分の懐に影響する。被信託人の法人が、これと同じ次元で果たしてその資産を管理しているのだろうかと疑問を持たざるを得ないことがある。財産を減少させ尚且つ、高額な信託料をもらっているのは理解できない。利益があることも損失があることも当たり前で、そういう被信託人を選んだ人の責任でもあるというならば、故人も浮かばれまい。少なくとも、被信託人としての善管注意義務があろうと思う。しかし、アメリカの金融機関に対し、日本人の受益人がその責を問いたくても、言葉の問題や考えや文化の差もあり難しく、そのままになっているケースがある。