死者との対話と言うと、何かかっこよい表現にも思えるので、死者とのコミュニケーションと言うべきかもしれない。特にこれは、おどろおどろしいものではない。ごく我々が普通に行っていることだ。コミュニケーションであるわけだから、一方が何かメッセージと言うか、何でも良いのだが、時間を越えて相手の心に届いたり、響くものを与えるならば、これ、即ちコミュニケーションである。
最も簡単な例は音楽でも、絵画でも、文学でも、スポーツでも何でも良い。年末恒例のベートーベンの第9交響曲を、聴いたり、演奏したり、自ら歌って感激したり、良かった悪かったなど諸々の感覚が自分の中に得られるとする。これは即ち、ベートーベンと自分が何らかのコミュニケーションをしているに他ならない。モーツアルトだって、バッハだって、数世紀を経てコミュニケーションが成立するものだから、これはすごい。絵画を見て、本を読んで、映画を見て、自分の内面に生まれるものがあればコミュニケーションだ。
そうした歴史に名だたる人とのコミュニケーションも良いが、自分の身の回りにいる人でも十分、コミュニケーションが成立する。先日、セミナーの講師をしてくれたKimは、初めて訪れた日本で、亡くなった母親の夢を見たと言う。少し異なる環境に自分を置く事により、何かが刺激され、亡くなった親が夢枕に立ってくれたのだろう。
自分の家の周りでも、春先には桜並木が見事に花を咲かせる。その下で食べたり、飲んだり、歌ったりしているわけだ。その桜の由来を聞けば、ある方が数十年前に桜の木を植えてくれている。これは、その人の思いを桜の木が我々に何かを伝えてくれる。
この点で言えば、遺言や遺産財団の設立趣意書を読むことで、その方の志の高さに心を動かされることがある。仕事だけで処理をすればきわめて無機質に処理をするだけになる。しかし、“20○○年になれば、わが母校である○○大学に寄贈し、人類社会のために有為となる若者のために、わがお金を次のように使うことを命じる”とか書いてあり、事細かに指示があることで、いやでもその人の考え方に触れることになる。
日本語で書いてあれば、さっと通り過ぎてしまうだろう。しかし、英語で書いてあれば、それなりに時間をかけて読むので、長い時間、その人と触れ合うことができる。そう考えれば外国語の文章も読むことがありがたくなる。仕事をしながら、志に触れさせていただき、一つの喜びを分けてもらう。
自分が何かのメッセージを発揮できる人間になれればよいのだが、自分にはとても大きな宿題だ。